高次脳機能障害を考える
サークルエコー
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会報第5号(2001年4月号)

介護支援を組み入れモデル事業はじまる  
 国の高次脳機能障害に対する取り組みは、1997年、厚生科学研究費による実態調査という形でスタートしました。5年継続の研究費により、その後も調査やシンポジウム等が実施されてきました。この4月は、はじめて事業費1億400万円が計上され、高次脳機能障害支援モデル事業がはじまります。 サークルエコーは、昨年5月に厚生省に重度支援を要請する交渉をしたのを皮切りに、3回の要望書の提出や国立リハビリテーション病院との懇談会などで、「モデル事業が、復学・就労などの社会復帰を中心とするものなら、サークルエコーのメンバーたちのような重度の高次脳機能障害者はその恩恵をほとんど受けられない。ぜひとも介護支援を入れてほしい」と訴えてきました。予算案が通過したのちのモデル事業の資料には、昨年までの資料になかった「生活介護支援」ということばが入っていました。再三にわたる交渉の成果をみることができました。2月には、都により、区市町村の福祉関係者を対象とする「高次脳機能障害」についての講習会も開かれるなど、行政側にも啓発のための動きが出てきています。しかし、障害に対する認知の低さと対応の遅れは、我々が日々遭遇することでもあります。今後とも、粘り強く活動を続けていかなくてはなりません。サークルエコーの21世紀は、逗子の新年合宿からはじまりました。新年会に先立ち、常設の場、ホームページ、ダンス公演への賛助出演などについての話合いを行い、ロゴマークの決定、愛知エコーの活動報告などがありました。 昨年5月に始まった渋谷区神宮前での「えこ−たいむ」は、情報交換、会議がメインでしたが、今年にはいって、若者たちの原宿周辺ウォーキングが定着し、ストレッチやダンスの練習など当事者向けの活動も進んで来ました。 4月1日にはジャズダンス公演「いるかの夢」に賛助出演しました。エコーの若者たちへ会場から大きな拍手をいただきました。「エコーの夢」も一歩一歩形にしていきたいですね。                          
     
2001年 4月   サークルエコー代表  田辺 和子

  えこーたいむ&新年会 
 1月13日(土)14日(日)、逗市マリーナでエコー会員、協力会員の計21名参加による一泊二日のえこーたいむ&新年会が行われました。初日夕方、全員集合、ミーティングのあと6時からいよいよお楽しみの食事タイム。ヨシは、嬉しさが顔に体に溢れ、美味しいものを戴き満足そう。一段落すると、マサはオセロに挑戦。落ち着いて打って行きます。いつの間にか部屋の隅っこではカラオケが始まりました。曲は、「川の流れのように」。子供達が唄い、親やまわりの人たちも加わり、全員がいつの間にか一つになりました。
 次の日、帰り際にユタカ、かおちゃん、ゆうちゃんの3人は、親と一緒になって散歩。昔探しに時々ここに来るユタカ。今回は記憶の中からどんな思い出を体に感じて行かれたのでしょうか。 帰路鎌倉へ寄りました。ダイも一緒に鶴ヶ岡八幡宮まで歩きました。皆と団体行動をとるダイといると周りの人はより幸せになります。なかなかお会いできない愛知エコーのかおちゃんとも一緒になって、親睦を深めることが出来ました。協力会員の皆様も参加して楽しい新年会となりました。     (と)                         
 

 いるかの夢・エコーの夢ものせて 
♪ 今回、わたしの主催するスタジオ・ウィ発表会に思いきって、エコーのみんなも一緒に舞台にあがってもらいました。発端は、一般の人たちには、目に見えない障害、聞きなれない高次脳機能障害について(私たちも以前そうであったように)知られていないことが多く、当事者とその関係者だけではない輪が広がればというエコーの日ごろのおもいがありました。とはいえ、現実のエコーのメンバーは、すぐ寝てしまう、気分が向かなければ建物に入らない、制止は聞かず、歌を歌いだす。一人一人の障害が違っています。わたしとウィの斎藤にとって、ウィ、ウェーブ、エコーと目的もカラーも違う3つの集団とどのように係りあいを持ち繋げていけばいいのか、どのような舞台を作り上げていけばいいのか。輪が広がるどころか恐怖に近い不安のほうが、胸いっぱいに広がっていきました。ところが、3月18日のリハーサルはわたしの怒鳴り声を除いては、いい一日でした。エコーに始めて会うウィ、ウェーブでしたが、とまどいながらも自然に接し、迷うことなく、本番をめざす空気でいっぱいになりました。その後、不安はなくなったものの、エコー狂騒曲の始まりになりました。ウィはパネルつくり、ウェーブは障害についての理解を求めて三郷市長に訴えに行ってくれました。一つになっていくのを感じました。また、同じ高次脳機能障害を持つハイリハ東京の人たちに、電車を乗り継ぎ大変な思いをして遠くまで来ていただきました。ありがとうございました。手をたずさえて歩いていけたらいいですね。スクリーンに写しだしたビデオを製作するために、ホスキンさん、村上さん、田村さん、金さん、スタッフの皆様、雨の降る中、何度も足を運んでいただき、わたしの無理な注文に答えていただきありがとうございました。前日まで、桜が満開になったにもかかわらず、雪が降り、波乱含みの天候でしたが、4月1日は朝から、青空が広がりました。エコー全員、舞台に上がり、輪になって踊りました。エコー全員、一人一人の名前を呼ぶことができました。そして、ウィ、ウェーブの方々が「エコーと一緒に舞台に立ててうれしかった。ありがとう」と言ってくれました。                                                                      
                                                               谷口 眞知子


♪「いるかの夢」に「ハイリハ東京」の仲間たちがツアーを組んでやってきてくれました。そして、翌日のメーリングリストには熱い声援が。(抜粋)

○JAZZダンスって、男女が手を組んでステップを踏むだけだと思ってたんだけど、行ってみたらなんのその全然違ってかなり面白かったんで行ってよかったです。最後にエコーの人達が一緒になって踊ってましたから、俺も一緒になって手拍子したら、自分の持ってる障害のせいで手が痛くなったんですけど、それでも手を叩きたかったから叩きました。(goriraman)
○エコーのみなさんの楽しそうなダンス!あの曲もすごく良いですね!しばらく耳について離れませる@「ハイリハ」でもみんなで輪になって踊ってみたくなりました。(AMKAMI)
○私は STになっていなかったら N.Y.のBroadwayで ミュージカル・スターになっている予定だったので(!?)一緒に踊りたくなりました。 (k-guri) 
○行ってよかった!! ほんとにほんとにすてきでした。谷口さんのあの細い体のどこに すごいエネルギーがあるのかと感動の連続で、みなさんのステージからすごいパワーをいただきました。エコーのみなさんの輪にわたしたちも一緒に手をつないでいました。涙がでて止まりませんでした。(ままごん) 
○まだ、頭の裏でメロディーが響いていて、何だか体が動き出しそうな気がしています。多彩にして大迫力の「いるかの夢」は感動のジャズダンス公演でした!!フィナーレの"輪になって踊ろう"の頃には、感激で涙を拭いていました。(akirin&母)
○暗闇の中で「光が見えない!」というシーンから、淡い光が少し見えてきたという変化を表現されていたところは、僕にとってとても感動的でした(僕も右目の視力がないので…)。なじみのある「Gold Finger」や、パラパラの曲のときは、僕もダンスしたくなってしまい、ついに最後にはステージにまで上がってしまい、これはまったく予定外の行動でした。(k1-mori) 


朝日新聞 2001年2月27日付

身体障害者とも知的障害者ともみなされず病気や事故などで脳がダメージを受け、その後の後遺症で記憶障害や知的障害などを抱える高次脳機能障害。外見上の障害がないうえ、発症した時が成人のため、知的障害としても扱われず「医療と福祉のはざま」で、家族は重い負担を強いられている。都内でも、介護が必要な重度障害者の家族らが狛江市でグループ「サークルエコー」をつくり、社会の受け皿づくりを訴えている。(平山 亜理)

高次脳機能障害の家族らがグループ 狛江の「サークルエコー」

 サークルエコーを発足させたのは、、狛江市元和泉二丁目の田辺和子さん(五五)。田辺さんの二男大輔さん(三〇)は、早稲田大学四年生の時の1993年、持病のぜんそくが引き金となって呼吸が止まり、高次脳機能障害になった。十日間意識不明の後、目を開けたが親の顔を見ても何の表情もなかった。「お水」「何でこうしてるの」と二言三言話したと思うと、翌日には興奮して「帰れ」と叫んだ。

 その後、言葉は話さなくなった。一人で食事したり着替えたりできない。9ヶ月入院したが変化がなく、自宅に連れ帰った。目を離すと布団や書類を捨てたり飛び出したりする。ぜんそくで苦しくとも助けを求められない。和子さんの手を一日握っている時期もあり、二十四時間、目が離せない生活が始まり、和子さんは仕事を辞めた。

 高校時代、ブラジルに留学した時のアルバムを見せたり、得意だったビリヤードを見せたりしたが、反応はない。ただサザンオールスターズのテープを流すと目に涙をためた。医療と福祉のはざま負担重く和子さんが愕然としたのは、彼を守る社会的な制度がないことだった。身体には障害はないため、「身体障害者」とはみなされず、十八歳を過ぎてから脳に障害が出たため、「知的障害者」にも入らない。ようやく取れたのは「言語障害」で、身体障害三級の手帳。「実際は重度の知的障害なのに一度獲得した知識を失ったのは、、制度上知的障害にならない」という。

 九六年、地元の障害者の新年会で窮状を訴えたところ、市議を介して国会議員に伝わり、国会で問題になった。その年に実施された厚生労働省の実態調査で、事故の後遺症で障害が出た人の約半数は障害者手帳も、障害年金も貰えない現状が明らかになった。

 昨年三月、都が発表した調査では、都内に推定約四千二百人がいることも分った。九八年、同じ障害を持つ都内や埼玉県内などの家族と一緒に「サークルエコー」立ち上げた。今は障害者や家族約35人が週末に渋谷区神宮前の知的障害者の、の作業所に集まり活動する。

社会の受け皿づくり訴え
 ダイビング講習中に溺れた女子大生ら若者ばかりで、心肺停止になったためみな障害が重いという。デイケアサービスが受けられず、障害年金ももらえない人もおり、「親が元気なうちはまだいいが・・・」と親たちは、不安を抱える。
 和子さんは、「障害を分類するのではなく、どういう支援が必要かということに視点を置いて制度を作るべきだ」と訴える。エコーの

問い合わせは、エコー事務局(TEL03・3430・8937へ)

 アユ遡上調査中の事故でした
                                                                                                山内 和子

今から約2年前、息子は大学4年生になり、卒論や就職活動に向けて希望にあふれていました。バイクが好きで随分と心配しましたが、事故もなく、4年生になったら止めると言ってくれほっとしておりました。

 ところが、1999年4月18日、九州の警察署から電話があり、息子が川で溺れて意識不明の重体であると告げられました。泳ぎの達者な息子です。とても信じられませんでした。夫と二人、どうやって九州に行ったのかも覚えていません。大学のゼミで、教授、助手、生徒(息子1人)の計3人でアユの遡上調査中、増水した川で教授と2人流されました。助手の人は川に入らなかったそうです。そのゼミに息子は4月に入ったばかりでした。他の生徒は3年生からだそうで、4月に入ったのは息子ひとりでした。近くを通りかかった人の中には、通報してくれた方や、息子を助けようと川に入った方もいました。しかし、増水して危ないためやむを得ず引き返したそうです。その後、レスキュー隊の人に救助されました。足が浮いていたので分かったそうです。

 この方々の尊い善意のおかげで、K病院に運ばれました。息子は、心肺停止40分ほどありましたが助かり、教授は亡くなりました。意識が戻ってからも、何度か命の危機があり、少し良くなると身体を無意識に動かしてしまい、点滴が外れたり、自分で鼻腔チューブを外したり、そのたびに主治医のW先生が来て下さいました。息子を叱ることもありませんでした。それが夜中であっても。他のドクターも同じ対応でした。W先生は、ベッドに寝ている息子と同じ目線になるようひざまづいて、なぜ今この治療が必要なのか話し、「抜いたらまた来るからね。でも、痛い思いをするのは山内君だよ」と言ってくれ、患者と家族の心がわかる先生でした。この病院では、いろんな方にお世話になり、なかでもFさんは、退院後も相談にのってくれました。その後、京都のリハビリ病院に転院しましたが、幻聴、幻覚が出て辛い思いをしました。環境の変化についていけなかったのでしょう。2度目の病院を退院するとき、つぎの病院の紹介はなく、高次脳機能障害であることも知らず、保健所や病院を訪ねまわりました。情報がなく、大変な思いでした。今は、地元の病院へリハビリのため、通院しています。ついさっきのことも分からず、24時間目が離せません。どこに行くのも一緒です。日常生活も、ひとりではまったくできません。思ったことも話せず、なんとか歩けるものの、身体も不自由です。事故の記憶はないけれど、事故以前の記憶があるため、自分の大学名と学部、友人の名を毎日毎日聞き取りにくい小さい声でつぶやいています。忘れたくないからでしょうか。今までごく普通の生活をし、ひとり息子も大学をあと1年で卒業という時、思いがけない事故で私たち家族の生活も人生も変わってしまいました。その原因が、病気でも息子が起こした交通事故でもなく、大学のゼミ中の事故であることがどうしても納得できず、くやしい思いでいっぱいです。私も夫も疲れ果てています。遠くへ通勤していた娘は近くで仕事を探してくれています。車で1時間半の身体障害更生施設に、ショートステイの申請中です。地域の福祉センターは、若いためショートステイは利用できません。自宅以外の生活の場もなく、親亡き後、入れる施設も居場所もありません。
 エコーの方々の元気をもらって、少しずつ前へ進んでいきたいと思います。