高次脳機能障害を考える
サークルエコー
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会報第3号(2000年10月号)
息子が対象者に・・・船橋市障害者介護支援事業
 障害者介護等支援サービス(ケアマネジメント)体制整備推進事業が平成15年度から全国で動き出します。

 それに先駆けて7月船橋市における障害メケアマネジネント事業問題シンポジューム」が船橋障害者自立センター企画運営のもとに開催される等、準備が進められてきました。

 船橋市の推進事業の対象は「在宅での重度身体障害者」ですが、「重複障害者を含む」ということで息子が21名の中に加わりました。しかし、身体6級、保健福祉1級の息子が対象者に決定するのは容易ではありませんでした。難色を示す県に対して「生活全般、24時間の介護を必要とするにもかかわらず医療と福祉の狭間に落ち込んでいる息子」に前向きの理解を示してくださっていた障害福祉課の県への時間をかけた粘り強い交渉がありました。また、県議・市議・県の担当者3名と当事者である私を交え計6名での懇談の機会が得られました。その席上、

@ 高次脳機能障害者の早急な実態把握と対策の推進
A 船橋市の推進事業の対象者に、新しい障害である高次脳機能障害者も加えていただきたい等の要望書を県側に手渡してきました。そして8月中旬「決定」となった次第です。現段階ではフローチャートに従い、
@ ケース対象の選定 → A 試行事業の説明 → B 同意書の提出

迄、進められています。

 船橋市が高次脳機能障害を他の障害と同じテーブルで福祉と医療の面から話し合う第一歩を始めたことの意義は大きいと思います。(部分)
 外見上重度の身体障害はないものの、日常生活全般に渡って介護を要する、低酸素脳症を原因とする息子に、医学的リハビリテーションから社会的リハビリテーションに至る総合的な支援が、具体的に的確に提供していただけるのか・・・?
 セルフケアマネジメントが困難な息子ですが、地域に現存している幅広い領域の関係諸機関との話し合いがこれから持たれようとしています。従来の障害者のイメージとは異なり、社会の理解が薄い高次脳機能障害者である息子が、基本的な人権を持った一人の人間として、残存している能力を引き出す支援を受けながら、境生活力を高め、社会参加の出来るケアプランにより、一日も早くサービスの提供が受けられるようになりますことを切に願っています。
川崎 弓子

作業所ヤモリさん訪問記
 8月9日午前10時、豊橋市西羽田町にある「ヤモリクラブ」を訪ねた。恐そうな名前なので本当に障害者の集まりなのか不審を抱きながら建物の前まで来て、すぐ理解できた。開け放たれたドアや窓、50年は経っていそうな古い家、間違いなく「ぼくの頭はどうなったの?」に書かれてあった高次脳機能障害者の家だとわかった。サークルEchoの機関紙を持って「ごめんください」と訪問した。代表の星川広江さんに説明を受けた。

 作業所ヤモリは2000年2月1日に開所した脳外傷(高次脳機能障害)、病気等で中途障害になった脳損傷の人たちが中心となってリハビリと軽作業をする場所である。脳外傷友の会「みずほ」豊橋支部でもある。
 星川さんは豊橋にいる中途障害者を「家に閉じ込めないで」と集め、市の条件にかなう10人の中途障害者で作業所を開設された。維持費と2人分の費用として300万円強の補助を受けている。親亡き後の中途障害者の居場所作り、豊橋だけでも数箇所作りたい。
 話している間にもどんどん人が入ってきた。中学生や高校生も手伝いに来ていた。「さあ、朝の挨拶をしましょう」とみんな中央のテーブルに座った。何だか、明るい、いい感じの作業所だった。扇風機の風だけ、大きな昔風の窓は開けっ放し。気分ですね。暑さを感じなかった。みんなにこにこ、笑顔でした。
 帰り際[おじゃましました」と声をかけると全員で「ごくろうさま」と返ってきた。とても気持ちのいい訪問でした。
マサの父
ユタカさんはいま・・・
 私がユタカさんとお付き合いを始めたのは、約1年半前です。初めは会社を定年退職した大体同年輩の連中3人が交代で、ユタカさんのプールでの遊泳介助というところで、一緒に水泳を楽しんでいました。私たちとの会話はズレがありましたが、ユタカさんの若いころの記憶や、好きだった山の話の部分では、健常者、いやそれ以上の知識を断片的にでも聞かせてくれるときもあります。また哲学的な言葉が口を突いて出たりすることもしばしばで、そのときはハッ!とし、彼の往時の考えの深かったことが垣間見られる時すらあります。

 ある時、「俺は生きているのか?」と、問いかけてきました。その言葉は彼の脳のきわめて健常なある部分が目覚め、自身の中で存在の不確実さをふっと感じ、周りの壁に向かってぶっつけているのではないか? とその時私はドキッとし、もしかすると彼の中でその不確実だった壁を突き破って、またもやこの世界に戻ってくることが出来るのではないか? これはいいことか、いや、そうではなくて、この穢れのなくなった青年がまた不浄の環境にまみれてしまうのではないか? 変な危惧さえもちました。

 ある秋の午後のできごとでした。船橋アリーナでの水泳を終え、ユタカさんと後になり先になりして帰る道すがら、一人の元気そうな青年とアリーナの入り口近くですれ違い、そして去ろうとしたとき、その青年が自転車から降りてきて相当厳しい顔でユタカさんに詰めより「何か言いたいことあんのか!」とまさに喧嘩の様相です。案の定、ユタカさんはあの澄んだ目でその青年を凝視しているのです。私はこわごわ割って入りました。なんと言えばいいのか、言葉に詰まりました。ただ「この人、いま、療養中で・・」と訳のわからないことを言ったのです。その青年はすぐにわかったのか、急に顔のこわばりをとり「あっそう」と言って立ちさる様子でで自転車の向きを変え10メートルも行ったかと思えるところで、また引き返してきました。やっぱり喧嘩になるのか?と胸騒ぎがしたのですが青年は自転車を降りるや「ごめんなさい。許してください」と深く頭を下げたのです。瞬間なんと答えていいのか戸惑いました。ただ「いいえ・・・」と答えたと思いますが、正確には覚えていません。

 後で考えてみて、今時こんなにメリハリの効いた青年がいるのかと思い、逆にこちらから謝りたい気持ちで一杯です。多少喧嘩早い青年でしょうが、その胸の奥にある優しさがいまだに私に刻まれています。

 その日ユタカさんは何事もなかったかのように私の手を握って、あの得意な言葉「そうだよなー」と涼しい目で語りかけてくれました。

ボランティア U
日々の暮らしをクローズ・アップ・・・ドキュメントD.D.
 ☆4月中旬より1ヶ月半にわたりTBS番組「ドキュメントDD」の取材が行われました。☆

 6月27日 0時50分より副題「母を支えた青年の幼い笑顔」として放送され、多くの方から感想が寄せられました。

 ○ 日々の暮らしがクローズアップされたことで、昨日のことではなく、明日のことや今日のことを充実させなければ、ということの貴重さをずっしり考えさせたのではないかと思います。皆様の勇気と決断に至る思いをしっかり受け止め、私自身も関係者へ伝えていきたいと決心しております。(C.H)

 ○ Echoに行き着くまでの数年間、Echoが立ち上がってから必死に行動し、頑張ってこられた様子がひしひしと伝わってまいります。ご自分たちだけでなく、さらに新しく障害に会われた方々の相談機関を目指す姿勢にも感動いたしました。(M.S)

 ○ ビデオを拝見し、皆様の日ごろのご苦労が改めて実感されました。(R.S)
 ○ 番組の中では「低酸素脳症後遺症による生活上の障害」に焦点が当てられた。高次脳機能障害の障害像の多様性と「母は強し」を実感する内容であった。(ハイリハ東京「HP」)

 ○ 見終わって、暖かいぬくもり、余韻が残った。障害を負った息子たちをありのままに受け止め希望と愛情を持って、困難を前向きに切り開こうとする母親たち、家族の生き方をカメラが素直にとらえていたからではないかと思った。(しんぶん赤旗7月1日)
助成金をいただきました
 平成12年度全社協、福祉活動振興基金助成事業において、「ビール酒造組合」様より助成金、50万円をいただきました。機関紙発行のための活動機器(パソコン、デジカメ等)購入費として使わせていただきます。
あれから二年
 平成10年10月24日、ヨシ24歳、アルバイト中の出来事でした。夜、トラックで配達の途中、喘息の発作を起こし団地敷地内の自宅前道路で倒れました。救急車で運ばれましたが重篤発作のため、意識障害、チアノーゼに続き呼吸停止。すぐに、人工呼吸と全身麻酔が施されました。

 11月3日、入院して10日目、午前中までは少しずつよくなってきていたのに、また痙攣が起きてしまいました。11月6日、肺の気胸に穴があき出血、感染症がおこり血液の中にカビがあるとのことでした。喘息の発作もおさまらず、先生から『今日は最悪の状態です』と言われ絶望的な気持ちになりました。そんな時、娘と孫たちが来てくれました。顔を見ただけでとても救われる思いがしました。その後喘息のほうがおさまり麻酔を切りました。しかし、意識は戻らず、先生に今度は腎臓が弱っていると言われ人工透析がはじまりました(3日間)。それが終わると貧血のため輸血をしました(3日間)。次は何を言われるのか病院に行くのが怖くなりました。

 こんな状態から約1ヶ月ようやく先が見えてきました。人工呼吸器が取れたのです。やっと本人の声が聞けました。でも、最初に言った言葉が「バカ、バカ、バカ」と3回、なんか様子が変だと感じました。数日後にも同じことを繰り返し質問してきます。何回説明してもすぐに聞いてくるのです。何かおかしいと感じました。

 先生との面談がありました。「今は意識障害がとても強く変なことを言うのもそのせいでしょう。ただ、低酸素脳症による記憶障害と知能障害は残ります」と言われました。その時はどの程度の障害が残るのか聞きたくはありませんでした。「これから後は本人のリハビリ次第です。」との説明に私はリハビリにかけようと思いました。 平成11年2月リハビリの病院に入院しましたが、ヨシの状態は悪くなるばかりで、病院からは退院をすすめられました。
「家に帰ったら生活のリズムをつくってください」と言われ4月から自宅療養がはじまりました。
 しかし、朝起きる、顔を洗う、歯を磨く、食事をとる薬を飲む、吸入するそんな普通のことができませんでした。 いちいち指示しなければできないということが分かりました。
 こんな生活が今も続いています。 昨年のヨシのほうが言葉は少なかったけれどまともだったような気がします。
「おれ、どうしてこうなったの?」「おれ、変でしょう」「おれ、生まれ変わったような気がする」「おれには2つの世界があるんだ」
など自分のことが見えていたような気がします。
 でも、今年に入ってからは、「バカ、バカ」「ボケ」「デブ、デブ」「くそババ」「ぶくぶくデブ」とか、何か質問しても「うるせんだよ、ボケ」という答えしか返してきません。最近のヨシは自分が病気であることをわかっていません。「おれは元気だよ」「おれはどこも悪くないじゃないか」と言います。こんな息子をこの先どのように教えていったらいいのか、どう生きていけばいいのか。 私も落ち込んででいました。 そんな時、サークルEchoを知りました。会合に参加させてもらい、みなさんがどんなに大変であったかを知りました。今も、大変さは続いているはずなのに、明るいお母さん方の姿に、私はとても勇気と希望をもらいました。これからどんな辛いことがあっても、みんなのように頑張っていこうと思いました。いつか、奇跡が起こることを信じて。

西田 宏美