高次脳機能障害を考える
サークルエコー
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創刊号(2000年4月号)
サークルEcho1年の歩み
交通事故や脳血管性の病気などで脳にダメージを受けた人の中には、新しいことが記憶できない、意欲が低下した、言葉が出なくなってしまった(失語症)などのため、介助なしには日常生活が困難になってしまった人たちがいます。このような人たちが抱えている障害を「高次脳機能障害」といいます。
 めざましい医療の進歩によって呼吸停止などの危機的状況から救命されたものの、重い後遺症を抱えて「高次脳機能障害」の人たちと家族は悪戦苦闘の日々を強いられています。この分野のリハビリはまだ手探りの状態なのです。多くは家庭に戻り、家族が日常生活の世話をしています。身体上の障害を持つ人に対しては、車椅子や補聴器やバリアフリーの住宅など生活をしやすくするものが工夫されてきたのに比べ、「記憶」や「意欲」を手助けする器具はありません。家族などによる24時間の「頭脳の代行」が必要なのです。
 この深刻な障害をもつ人たちの多くが、福祉のサービスを受けられないのは不思議なことです。身体的な障害がないとして「身体障害手帳」が交付されず、18歳以上の中途障害者は「知的障害」も対象外とされているのです。そのためディケアの場もなく、また、障害年金も受給できず経済的な見通しがもてない人もいます。
 1998年12月、高次脳機能障害の若者が抱える医療上、制度上の問題を一緒に考え支えあうために「サークルEcho」はスタートしました。
 この1年間は、シンポジュームに参加し、専門家のご意見を伺い、行政の方々と情報交換の場をもちました。Echoの若者たち自身も、さまざまな活動を一緒に行ってきました。多くの高次脳機能障害の青年たちとの出会いもありました。
 活動を通して見えてきたことは、高次脳機能障害の中でも、Echoの若者たちのような「低酸素脳症」を原因とするものは、特に重度であり、より多くの介護を必要という現実でした。
「低酸素脳症」「高次脳機能障害」、2つのキーワードでくくると、なかなか地域での活動とはなりにくく、少人数でありながら広域にわたる活動という難しさもあります。
 今年度も、まだ、模索という状況は続くはずです。
 1年目のサークルEchoを支えてくださった方々に心よりお礼を申し上げますとともに、多くの困難を乗り越えなくてはならない若者たちのために、引き続きお力をお貸しくださいますようお願い申し上げます。
                                                                 田辺 和子


高次脳機能障害の学習会(10月2日)

 10月2日、国立市の多摩障害者スポーツセンターでサークルEcho主催の「高次脳機能障害の学習会」を開きました。
 午前中は墨東病院言語療法室のS先生の講演。息子さんのアメリカの留学先の高校でのインターネットの活用の実態を知り、息子さんの手ほどきを受けて、国外、国内の高次脳関連の情報を取り入れているとのことです。また、障害を持つ人たちに情報を活用してほしいと、アメリカのNational Resource Centerのホームページの脳外傷の相談内容を事例をあげて説明されました。本年1月に立ち上げられた若者のグループでは、インターネットを導入した新しい試みが始まっ
ています。(下記参照)
 午後は、川崎市で障害者のためのディケア&ショートステイ「フリースペースあゆたか」を開いているFさんに、高次脳機能障害の青年との取り組みを話していただきました。中学時代に交通事故で障害を負った青年が辿った10年の道筋、(生まれつきの)知的障害者とどこが違うのか、受傷前に培った財産を引き出すためには何をヒントにすればよいのかなどビデオ映像とともに具体的に話していただきました。
 Fさんには、Echoの最初の行事である昨年5月の逗子合宿に同行していただいたり、3人、それぞれがはじめての外泊を「あゆたか」で経験させていただいたりする中で、息子たちとどう向き合っていけばよいのか学ばせていただいています。
 講演会の前夜は同センターで合宿しました。Fさん、SさんのほかにいつもEchoを支えてくださっているT・Mさん、M・Mさんも加わり、高次脳機能障害について熱のこもった話し合いとなりました。また、当日は、ボランティアのK・Tさん、G・Aさん、国立リハの学生さんお二人にEchoの青年たちに付き添っていただきました。    



 障害者職業総合センター見学(9月13日)

 千葉県幕張の「障害者職業総合センター」は、障害者の就労・訓練を援助するための労働省の外郭団体です。訓練風景、図書館、研究コなど、広大な施設を見学した後、主任研究員のT・Kさんと2時間近く高次脳機能障害について話し合いました。
 これまでに高次脳機能障害者のセンター入所は数名ありましたが、3ヶ月の訓練を終えて就労した人たちも、疲労感や記憶障害のため退社に追い込まれるケースが多く、継続させるためにはどうしたらよいのか今後の課題となっているそうです。
センターの訓練のデータをもとに、障害者の就労などについて精力的に研究発表をなさっていますが、行政や社会にももっと理解を訴えていきたいと語られました。就労のための訓練施設なので、日常生活全般に介助が必要なサークルEchoの青年たちは、センター入所の対象にはなっていないのですが、私たちの話にも熱心に耳を傾けていただけました。
 今回の見学に際しては、職業訓練課のI・Mさんに大変お世話になりました。

 


「高次脳機能障害若者の会」とのつながりについて                             
 墨東病院・言語室のSさんに出会ってから1年近くたちました。
 言語室での訓練のほかに、医療の現場から見放され孤立している高次脳機能障害の患者のために何かをせねばと思い
 つづけてくれました。
 1月30日、高次脳機能障害若者の会が、Sさんの主催で立ち上がりました。その一環として、インターネット上で意見を
交換し合えるメーリング・リストもスタートしました。サークルEchoのメンバーも会員として参加しています。自分で語り、メー
ルを発信するこの会の若者たちの中にあって、Echoの3人は、やはり重度であるという事実は否めません。
 しかし、障害者の社会参加、権利の獲得など目的は同じです。手を携えて歩き続けていきたいと思います。


赤塚光子先生からのメール
                                                      
11月24日、新座市の立教大学コミュニティ福祉科・赤塚光子先生の研究室をお訪ねしました。
 翌日e−mailが届きました。温かいメールに励まされています。
 
 いろいろ大変なことも多く、ご心配やご苦労も多いでしょうに、この現実から、自分や自分たちのできること、やらねばならないことを整理し、実行なさっていこうとしていることに、感動しました。私も今、サークルの一員の気持ちです。明日は、
「ノーマリゼーション論」という講座を持っていて、「就労をめぐって」のテーマで準備してましたが、その話の前に、みなさんのサークルのことをお話しようと思っています。
 誰でも、みんな、楽しさを見つけることができます。皆さんのお子さんもきっとそうです。私もかなり長く、「障害者福祉の現場で相談にあずかる仕事をしてきましたがみなさんのお子さんのような事情で不自由さをお持ちの方たちについて、私たちはお一人ひとりの居場所や楽しさを発見する手立てを十分に持ち合わせていないと痛感します。どのように支援したらよい
のか、これはこれからの大きな課題です。そのヒントは、みなさん方の生活そのもの、また3人の方のそれぞれのお子さんへの関わり、グループでの関わりの中にあると思いました。学ばせていただきたいと思います。
 楽しさ、ということで言えば、私はどんな仕事も「楽しく」というのがモットーです。皆、何か大変さを持っている。その大変さは、自分の体力や我慢の限界を超えたり、その上、先の見通しが見えないとつらくなりますね。でも、Echoのみなさんは、これから先への道が見えてきていると思います。ですから、日々、深刻なこともあると察しますが、でも気持ちは前に向けて、楽しくやりましょうよ。


七度目の春がめぐって来る                                         

「あるがままに受け入れて、毎日を穏やかに過ごすように」という主治医の言葉に送られて退院したときは、もう12月も下旬になっていた。 突然の入院から7ヶ月にも及ぶ入院生活だった。街にはクリスマスソングが流れ活気に満ちていたが『高次脳機能障害』を背負い、医療と福祉の狭間に落ち込んでしまった息子に、手を差し伸べ優しい言葉かけてくれる人はいなかった。
 ここは見知らぬ街だった。
「帰ろう」・・・息子が育った我が家へつれて帰ろう」その事ばかりが頭をかすめ、退院から3日目には九州を離れた。
 実家に戻ると、息子の友人たちが次々と顔を見せてくれた。息子のあまりにもの変わりように言葉も出ない人、
「もう冗談はやめて」と泣き崩れる叔母、「先輩!どうしちゃったんですか・・・?」と息子と肩を抱き合って泣く山岳部の後輩、
意識して今までと変わりなく「ヨッ!元気そうだな」と握手を求める友人、「まあ、ボチボチ行こうぜ」と声をかけてくる同僚。
息子はさみしそうに笑ってはいたが「このような周りの反応に戸惑い、驚き、恐れ、不安が頭をよぎり落ち着けないらしく、家中を歩き回り5分と座っていられなかった。
「俺はいったい生きているのか・・・?死んでいるのか・・・?」
「俺はどんな世界に生きているんだ・・・?」と1日中私に問いかけてくる。
「どうして実家にいるんだ。こんなことしていられない。早く九州に戻って仕事をしなければ」と家を飛び出し駅で保護される。
外から鍵をかければ2階の屋根から隣家へ。24時間、ひと時も目を離せない毎日だった。
 大人の会話ができたかと喜べば「3・4歳の子供と同じ失敗を繰り返した。
 私は全身が、目、耳、鼻、になり緊張の連続の日々が続いた。そして息子は言葉を失い始めた。救命医療の目覚しい技術が生んだ新しい障害なので、生活の困難さについては市の理解が得られず「職員は『高次脳機能障害』という言葉さえ知らなかった。専門分野が違えば現場の医者からも「聞いたことないですね」と言われた。
 どれほど病院を訪ねまわったことだろう。徘徊して迷子になってしまう息子の手を握りながら・・・。
『高次脳機能障害』に関心をもっている医者がいると聞けば飛行機ででも飛んで行った。
「低酸素だから高圧酸素タンクに入れば?」と聞かされ大学病院も訪ねた。
『高次脳機能障害』という文字を目にすれば電話をかけた。手紙も書いた。しかし、返ってくる言葉は同じだった
 今の医学では一番遅れている分野、リハビリは手探りの状態でマニュアルさえもないということだった。もう、夢中だった。
何かリハビリの手がかりはないのか?毎日の緊張した生活にアドバイスが欲しい。素人の試行錯誤の日々が「息子の回復の手遅れにつながるのでは?という不安と焦りで右往左往するばかりだった。
 法が常に現実を後追いしていることは誰もが認める事実だった。だからこそ、家に埋もれているであろう同じ障害者や家族と情報交換をしたい。お互いの励ましを求めたが、横のつながりはどこにも見つけ出せなかった。そし私は過労で倒れ入院した。
 息子の回復を信じ駆けずり回って得たものは何だったのか?4年も過ぎたころから私は生まれてきた意味、生き続ける意味が分からなくなってきた。もう、終わりにしたいと思うようになっていく私と反対に息子は少しづつ自分の障害を認めるような言葉を出すようになっていった。
「疲れた」「もうだめなのよ」「もういいんだ、おかあさん、あきらめるから」等と息子に話し掛ける私に、
「お母さん、おれ、生きているんだね。生きているって素晴らしいネ。死んだら無だよ」
「元気になるのを待ってるって辛いぜ。しかも「信じて待つってネ。今の俺にはあきらめるより大変なことなんだよ」
「生きていれば、いろんなことがあんだよなあ・・・人は負けてもいいんだよ。くじけなければいいんだよ」
等と前向きな発言をするようになってきた。元気で29歳まで働いてきたという自信と実績、そこまでの記憶という財産があ
るから、淡々と語りかけてくる息子の一言「一言は私にとって非常に重みがあり、鋭く胸に突き刺さった。それからは、息子
の豊かな感性と心に私が支えられて日々を過ごしてきた。
 そして、6年目・・・・・
 心を、手をつなぎ合える仲間とめぐり合えることができた。
 本当にやっとである。
 サークルEchoの誕生である。
 息子たちを連れて何回もの集まりがあり、記憶力の乏しい彼らがニックネームで呼び合い、このような交流の中で各々が相手を思いやる仲間意識ができた。新しい発見である。記憶・認知・失行・失語等の後遺症の違いはあるが、FAX・PHS・電子辞書等を使い、意思の疎通を図りはじめた。もっとも、親の助けを借りてではあるが。
 このようなEchoの動きに支援・助言・励まし・そして理解を示して下さる方々の輪が広がり誠に心強く、感謝の気持ちでいっぱいである。自身、Echoの仲間とのひととき、そして7年という時の流れが心を癒し、心を落ち着かせ、息子と2人で山に登ったり、泳いだり、スキーに出掛けたり、息子の昔好きだった事を『息子の昔探し』と称しての旅を続けている。そこから意欲が引きだされればと念じつつ、今は我が家のモットーである「心・頭・体に心地よい笑顔の出る刺激」を心がけて生活している。 
突然の心肺停止が原因による高次脳機能障害者になった息子に・・・・・7度目の春がめぐってくる。
                                                                   川崎 弓子
 
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